虹の旅人

2011年3月11日 故郷が壊滅。 人生はNext Stageへ

塩釜半日 不思議2人旅

 ~長い文章になります~
 
 震災から3か月後の6月 東京経由で気仙沼の実家に帰省した最終日は予定を変更して 家屋が全壊被災した気仙沼友人C子ちゃんが身を寄せる 西塩釜に住む娘さんのアパートに 私も泊ることになりました。
 
外出中のC子ちゃんから 「翌日は 私のお散歩コースの塩釜神社を案内するよ~」のメールも届き 仙石線西塩釜の駅舎でC子ちゃんを待ちました。
 
待っている間に私は その駅が亡くなった実母が卒業した学校の 最寄駅であることに気づきました。 
 
翌日はお天気が良く 暑い程です。
 通りすがりにテレビで見ていた”御釜神社”を見つけて 4つの塩の釜を拝観した後、塩釜神社にご参拝。
 
紫波彦神社参拝を終え 忘れ物をしたような気がして戻って買ったのが 塩釜神社のお浄め塩3つ。
 
 3月11日に被災して以来 海の色の青い服が着られなくなり 気持ちが休まることが無かったC子ちゃんと 過ごす時間はとても穏やでした。
 
 一宿一飯の恩義を感じてランチ先を探すのですが 神社下の商店はシャッター街で開店している様子も無く、目についたのが寿司店の軒先でワゴンで売られていた助六寿司パック。
 
「暑くて このままアパートに戻ってもねえ~」なんて言いながら 休業中のお寿司屋の奥さんのご好意でカウンターをお借りして 買った寿司パックを二人で食べました。
 
震災のこと・・・気仙沼のこと・・・ この先に避難していること・・・etcを話しました。
 
話題の中に「佐浦町」と、現在は使われていない町名が出てきて、 「確か私の母は 佐浦町で生まれ育ちで釜女卒。
母方のお祖父ちゃんと祖母ちゃんのお菩提寺は塩釜にあり「雲」がつく名前のお寺だったような??」と、記憶があやふやによみがえり そのことを話しました。
 
今思えばC子ちゃんの娘さんのアパート住所が 旧佐浦町だったのですが 私が生まれた頃には 母の実家は仙台に移っているので あいまいだったのです。
そんなあいまいな話を聞いていた お寿司屋さんの奥さんが キッパリ言ったのです。
 
「元塩釜女子高校は 直ぐ裏にあり 歩いて数分。 雲の付くお寺は○○寺と○○寺の2つ。そこだって高校の隣だよ。せっかくここまできたのだから是非 両方に訪ねなさい!! これも 何かのご縁だから」と。。。
 
元塩釜女子校の乙女チックピンクの校舎前を通り抜け、「何百もあるお墓の中から 母方のご先祖様のお墓を探し出すなんて 絶対無理!!」と思っていると、こっちこっちと導かれるように迷わず 直ぐにお墓前に辿り行きました。 何これです!!
 
帰りがけ 暑い日中お寺のお坊さんが外に出て来られたので、「○○家の孫の者です。本日は札幌に帰る途中に お参りさせていただきました」と、ご挨拶できました。
 
私に付き合うC子ちゃんも この展開に ドキドキです。
 
そういえば数年前、気仙沼の母のお墓参りに付き合ってくれたのもC子ちゃんでした。
そのときも 途中で探していたC子ちゃんの父親の本家お墓を発見してお参りして 驚いたことがありました。
 
「自宅が被災して自分達家族3人は  あの時にお墓を発見し本家に避難して 1月以上も仏壇がある部屋で寝泊まりしていた」と言ってました。 
 
「何だか お墓繋がりだね。ご先祖繋がりだね~」と笑い合う2人です。
 
嫌なことから避難してきた塩釜で 母の若かりし姿を思い出し、ご先祖様のお参りと 時空間を越えた不思議な旅を体験しました。
 
そういえば気仙沼に滞在して実家の片づけをした際 母の高校同級会アルバム出てきて、そのアルバムを枕元に置いて寝ていたけど、これも偶然のことかしら・・?
 
御釜神社参拝の際 7月の藻塩焼神事のことを聞き、「その日までは塩釜にいない」と言っていたC子ちゃんの滞在が どういう訳か長引きました。
 
その都度C子ちゃんは 顔見知りになった寿司屋の奥さん所に出向いて情報を得て、塩釜神社の「夏越しの宵の茅くぐり」や、6日の藻焼塩神事の藻焼きの塩を受け取って 私に届けてくれたのです。
 
 
塩釜に仮住まいのC子ちゃん 本当にありがとうございます。
6月に気仙沼へ 龍御水を送って下さった石巻のM様 ありがとうございます。
 
 
貴重な塩と水を 8月11日 午後2時46分に 気仙沼鹿折の海で役立てます。