虹の旅人

2011年3月11日 故郷が壊滅。 人生はNext Stageへ

定山渓温泉 ぬくもりの宿 ふる川

現在札幌のコロナ感染は増加気味ですが 私が札幌から1時間弱の奥座敷定山渓温泉「ふる川」に宿泊したのは 感染者数が減少した頃 市民向けに「どこでも定山渓クーポン」が発行された直後。

老愛猫のりぃちゃん(15歳♀)がいるから 私たち夫婦が温泉宿泊するのは 無理だろうと諦めていたら 娘夫婦が「我が家に泊まって りぃちゃんを面倒みるから 行っておいで」と背中を押してくれました。

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念願の「ぬくもりの宿 ふる川は」では 夕食の春の味を先取した 至れり尽くせりの懐石料理を堪能。 

朝食は今どき珍しい 料理人手作りの和食バイキングで もちろんコロナ対策も万全で 宿泊客は食事場所でも手袋・マスクは必須着用。 f:id:nijinoringo:20210420215219j:plain f:id:nijinoringo:20210420215247j:plain f:id:nijinoringo:20210420215318j:plain f:id:nijinoringo:20210420215343j:plain f:id:nijinoringo:20210420215445j:plain f:id:nijinoringo:20210420215518j:plain 

 

食事だけでも充分満足できたけど お風呂上りや夕食後に寛ぐランジングも充実していて ゆったりした時間を過ごせました。

 

私個人の贅沢時間は 女露天風呂でもそうだったし ”開祖・美泉定山”が湯守した壱の湯を再現した”ゆ瞑み”でも 誰にも会うこと無く貸し切り状態で入浴できたこと。

また「ふる川」に泊まりたいから 毎日を頑張ろう。

「ふる川」が出迎えてくれるから また気分転換に来よう。と思いました。

 

 

結婚42年日にして初めての家出から その後

 前回の続き。

一応最後まで添い遂げるつもりでいた夫が あまりにも身勝手な言い分を通すので 「もういいな!!」と 私の”我慢の糸”が プツンと音を切れて 3泊4日の家出を決行。

元から趣味も価値観の違う夫婦と思っていたので その辺は今更とやかく思わないのですが。 ただ 同じ年月を重ねた妻の疲労を労わることもせず 自分の言い分を曲げられない老いた夫に呆れました。

家出の間 一度も連絡をすることがなかった私は 夫に対する自分の気持ちにも気づいたのですが ひとまず夫の留守を狙って着替えを取りに行きました。 戻った家には 私が居なくなった夜から情緒不安定になった老飼い猫・りぃちゃん(15歳♀)のゲボ臭が充満していて その中に夫がポツンと居ました。

仕方なく急遽新しいカーペットを買い 夫婦で居間に敷き直しているうちに しっかりお詫びの言葉を貰った私は 何となく自宅に戻っていたのです。

 

年月とは不思議なもので 日常的な会話がなくても 日々の暮しに困ることもなく過ごせます。 ツーンとした空気感で 1週間程過ごした結婚記念日の前日。

どこかで誰かが 私たち夫婦の気づまりな様子を見ていたようで 「これではいかん!!」とばかりに 夫側にも私側にも援護射撃の連絡がそちこちから届きました。

その結果 私が夫に懸念していた事柄が見事に払しょくされ 私の怒りも同世代の夫婦なら良くあること。と 親友が教えてくれました。

 

結婚42年日にして 初めての家出

 毎年4月7日の結婚記念日を迎える度に 趣味も価値観も違う私たち夫婦が 「よくここまで持ち堪えているな」の感慨に浸ります。

しかし今年41年目記念日を目前にした3月27日の夜 「世の中 何が起きるか解らない」ことが 私の身に起きたのです。

 

その日は 気を使う仕事相手との交渉をどうにか納めて スーパーに寄って7時半過ぎに帰宅して 遅い夕食を夫婦で摂りました。

夫は毎晩晩酌をするので 早いピッチでお酒を飲んでいたのですが 仕事に疲れた私は会話をすることも無く 上の空で食事を。

ソロソロ就寝の準備をしようとした矢先 70歳近くになってめっきりお酒が弱くなった夫が 些細なことを言い出してつまらない口論になりました。

「今日は ここまで」と止めても 激高した夫は聞き入れず 終いには「あんたが悪いから こうなった!!」と言い募ったのです。

一応 これまで連れ添った縁で 夫とは最後まで添い遂げるつもりでいたのですが 身勝手な言い分を聞いてるうちに 「もういいな!!」と 私の右頭に付いていた”我慢の糸”が プツンと音を立てて切れました。

 

それからが早かった。

機内持ち込み可能な旅行鞄に 着替え・PC・通帳・スマホバッテリーをぶち込んで

軍資金が足りないときの換金用にと ブランド腕時計とダイヤネックレスも追加して 祀っている神様と夫に挨拶を済まし 30分後の夜10時には 家を出てました。

 

子どもたちが近くに住んでいても 幼い子どもがいる家庭に 夫婦喧嘩をした親が夜遅くに行って「泊めてくれ」と言うつもりは無いし その夜の私には 夫の仕打ちを改めて口にする気力も体力も 残っていませんでした。

まさか自分が家を出て 市内のホテルに泊まるとは思ってもいない展開ですが ホテル泊は出張で慣れてます。

コロナ禍で 市内のホテルには空室は多いだろうしと この際だから休養を兼ねて お高めホテルでクールダウンするつもりが 寝る前の準備中だった私は スッピンのまま家を飛び出してました。

マスクをしているとはいえ 60歳過ぎの女が ガラガラ鞄を引いて夜の町を歩けば訝しがられるのは必須。

「落ち着け私!!」と冷静になり その晩は近場のホテルにチェクイン。

42年の年月が 小さな旅行鞄にずいぶんコンパクトに納まったものだと思ったものの 置いて来たものへの未練も 過ぎた日々への思い入れも全く湧いて来ず さっさと眠りに就きました。

 

朝起きてよくよく考えれば 前々日の26日夕方札幌市には コロナ感染による外出自粛制限が出ていて 春休みの最終日曜日に 人の多い市内中心部に近づくのは得策では無く ましてや飛行機や列車での移動はもっての他で その上その日の予想気温は 3月にしては異常に高い18度。

なのに前日の夜9時過ぎ 私が急いで用意した旅の着替え服は 全て冬仕様。

 

短気は損気と仕切り直して作戦変更し モスバーガーを手土産に休日のまったり気分の娘宅に押し掛け その晩はお世話になりました。

翌日は 年度末の仕事に追われる息子夫婦宅に 「たまには母親が 迷惑かけても良いだろう」と 初泊まり。

どう思われようと私には 育てた子どもたちに 伝えておかなければならいことがあったのです。

 

 気温の高い日が続いて 春物の着替えを取りに 夫の留守を狙って自宅に戻れば ことの重大さを察知した老黒猫・りぃちゃん(15歳)が 私が消えた晩から部屋じゅうにゲボ吐きしたようで匂いが満ちてました。

気温上昇で 更に匂いが増した部屋に 夫はひっそり居ました。

 

3泊4日の家出の間 同じ年月を重ねて来た妻を労わることもせず 自分の言い分を曲げられない夫を 案じる気持ちもなれず 一度も連絡を入れなかった私。

夫は慣れない料理を試みたようで 何本かの指を包丁で傷つけたらしく 絆創膏が貼られてました。

私の心の傷に比べたら 「それくらいの痛みは 仕方ないね」と 見ないふりをしました。。。

 

  

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本日は 42年目の結婚記念日

今年の4月1日を越える辺りから 我が家のそれぞれに転機が起きて バタバタと気忙しくしていました。

東日本大震災の節目の10年を迎える頃より 予兆はあったのですが・・・。

 

息子家族は 孫の花ちゃんの幼稚園進級に 転勤やら新事業やらに追われ 娘家族は 雪ちゃんが保育園に入園して 若いパパ・ママの方が子離れできずに 一喜一憂。

 

新しい環境に移る子どもや孫の様子を見守りつつも 変化が一番大きかったのは 長年連れ添っていても お互いを空気のような存在と感じられない私たち夫婦の関係でした。

 

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北海道初アイスクリーム屋さんの「鍋焼きうどん」

 小樽お墓参りの帰りに 昼食で寄ったのが 都通りにある創業50年以上の「パーラー美園」。

ここのお店は 北海道で初めてアイスクリームを販売したお店として知られているのですが 小樽では「鍋焼きうどんの美味しい店」としても知られています。

 

小樽に行けば「パーラー美園」パフェか 数百メートル先にある「あまとう」のパフェか どちらを食べるかを悩むのですが ある年のお墓参り後に「パーラー美園」に行くと 昼の混雑時間に来店した地元の人たちが 次々と鍋焼きうどんを注文。

 

それを見ていた私たちは 「きっと美味しいはず!!」と 再びパーラー美園に「鍋焼きうどん」を食べに行ったのです。

うどんはふわふわ。 上質な昆布の出汁がきいたタレ。ゴボウ天・ほうれん草・竹の子等の具だくさんの「熱々鍋焼きうどん」なのに こだわりの使用水が効いるせいか持たれ感の無い後味。

なので 続けてメインメニューのパフェが注文できます。

 

今回私がオーダーしたのは 春イチゴのパフェ。

変らない店と言いつつ アイスクリームの質が今どき風に進化していて あっさり完食。 f:id:nijinoringo:20210326121846j:plain f:id:nijinoringo:20210326121916j:plain

 

2021年春 コロナ制限解除直後の都通りは 観光客が絶えて人通りも少なく 40年以上も前 小樽っ子の夫が 当時”寂れた町”と呼ばれていた地元を 私に案内してくれた頃より もっと静かになってました。

 

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日本海の祈り後 太陽に黄金日輪

 前回記事の続きです。

 

 東日本大震災から10年目。

節目の3月11日を迎えて コロナ禍中なのに居ても立っても居られなくなった 埼玉在住のHさんから「看板を持参して 気仙沼に向かっている!!」と メールが届いたのは前日10日。

JR鹿折唐桑駅跡地に看板を置き ”鎮魂”をしてくれて   地元紙の三陸新報から「駅看板の 10年目の里帰り」取材を受け そこで帰ると思ってました。

 

しかしHさん夫婦と小さな孫の3人は その後青森に向かい 予定していた恐山を前にして Hさんの体調が悪くなり途中帰宅。

せっかく私の故郷・気仙沼に行ってくれたのに 何かがあったかなと思っていても 帰宅後も高熱が続くHさんとの メールでのやり取りでは 埒があきませんでした。

 仕方がないので私が祭壇に向い 守護神様に”神と意”すると 幼い御霊たちがワイワイ集まって「つみのこし」と 教えてくれました。

伝えられた言葉の解釈は 霊感があり今はヒーラーとなったHさんが 体調回復後にするかと思います。

慌しく出発した東北への旅が Hさんには命がけの旅となり なんだか残念な感じでした,

 

私は 無事に11日を超えたことを 日本海で祈りました。

その後 太陽の周りに黄金の光輪 

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3月11日 故郷鹿折に祈りを込めて

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2010年5月6日 被災前の鹿折唐桑

 何年経っても3月11日は 気が重く 節目10年目となれば辛さが増します。

直接の被災当時者ではない私は ”あの日”が人生の分岐点となったをお2人には 毎年連絡を入れます。

 

知人の Hさんから「鹿折唐桑駅の看板を持参して 気仙沼に向かっている!!」と メールが来たのは前日の10日。

震災発生時から 第18共徳丸が打ち上げられた気仙沼・鹿折地区に 撮影で通い続けて数年後 駅舎が取り壊される場に居合わせた鉄道ファンでもある男性が 駅看板を譲り受けました。

後々 私が開いたスピお茶会参加者だった道内在住のHさんは くだんの男性と結婚して埼玉に住みました。

 

3月11日に気仙沼に行っても 地元で被災した人達は ひっそり過ごしてるよ」と 伝えたのですが Hさん家は 居ても立っても居られなくて行動したようです。

 お陰で 里帰りした「鹿折唐桑駅の看板」が ”祈りの場”になってくれました。   

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        2021年3月11日の鹿折唐桑駅 画像提供 Hさん 

                

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