虹の旅人

2011年3月11日 故郷が壊滅。 人生はNext Stageへ

朝ドラ「おかえりモネ」ロス中です。

 震災から10年目の2021年春 朝ドラ「おかえりモネ」の舞台が 私の故郷・気仙沼と決まり 脚本は「きのう何食べた」の安達奈緒子さんでした。

主人公・モネは静かな感情表現に定評がある"清原果耶ちゃん"と発表されて以来 楽しみにしていましたが コロナ禍が起きて 気仙沼での撮影が短時間となり 放送開始が5月中旬と遅くなって心配していたのです。

気仙沼の友人たちからも「おかえりモネに エキストラ出演したよ!!」のメールが届いて 始まりを心待ちにしてました。

 

たぶん私は 他の方と違う見方で毎朝「おかえりモネ」を観ていたと思うのですが。。。

主題歌・BUMP OF CHICKENの「なないろ」の曲が流れるオープニングでは 亀島と呼ばれた大島や 出航船が停泊する内湾の「風待ちの街並み」が 一瞬映って懐かしかったです。

 

気仙沼編の度に 震災後の気仙沼市内の風景を探していました。

りょうちんと新次さんが住む仮設住宅の周辺が 5年前に帰省したときと変わってなくてガッカリしたり 亀島に竜巻が襲い 東京にいるモネが菅波先生の後押しで 一ノ関からタクシーで 「気仙沼大島大橋」を渡って帰るシーンにウルウル涙してました。

 

2011年3月11日 モネは受験で 父親・耕治さんと仙台に行っていて その日午後2時46分に地震が発生し40分後に津波が襲来し 雪がチラつく夕方には内湾に火災が起きて延焼し モネの住む大島には帰れませんでした。

安波山から父親と二人で島を見て泣き 数日後にようやく臨時船で帰宅したのです。

 

亀島に台風が襲い家族を案じたモネが 2019年4月に完成した橋(通称・鶴亀大橋)を渡って家に帰るシーンは 地元民 特に大島に生まれた人には悲願だったはずです。 

因みに 安波山から見ていたあのシーンこそが 当日番組撮影で気仙沼入りしていたサンドイッチマンのお2人が 安波山に避難して見ていた光景です。

札幌に住んでいた私も 北海道からの交通網が寸断されて帰る術が無くて絶望し 55歳の私が気仙沼・鹿折地区に帰る度に”一人だけ離脱”して平穏な暮らしに戻る”後ろめたさを感じてました。

15歳のモネが あの日抱えてしまった大きな負い目とは似て非なるものでしょうが 当時の記憶を 色いろ重ねながら観ていたのです。。。

 

札幌の友人からは 「朝ドラにしては 地味で暗いドラマetc」とも聞きますが 「被災した気仙沼の現実は あんなものです」と答えてました。

10年経ても 震災の当時者とそうじゃ無い者の相違・思惑は微妙にすれ違い ましてや言葉にするには難しく 相手を思うからこそ言葉にできない加減を 安達先生は優しく丁寧に文字にしてくれました。

そして女優の清原さんは”細い糸を紡ぐ”ように 真摯な言葉で素直に語ってくれました。

 

「おかえりモネ」の中で被災した登場人物が 各々の立場で 胸の内を語った場面がありましたが ”あの日”を知る人たちがテレビを観ていたら その言葉は「自分が言いたかったこと。思っていたこと。伝えたことだった」と 改めて気づいた心情だったのかもしれません。

けっして声高にモネは主張はしなかったけれど 傷ついた人たちに寄り添う姿勢や 自分は大丈夫と言う人にも 互いの温もりを伝えるヒントを教えてくれた名作かと思います。

 

余談ですが 「おかえりモネ」がきっかけで 私には嬉しいこともありました。

被災して多くを失った地元友人と 登米森林組合のさやかさんやオバちゃんたちと一緒の気分で 気象予報を目指すモネと 人と接することが不器用な医師・坂口健太郎さん演じる”誠実な菅波先生”とのスローな恋愛にやきもきして メールのやり取りを久ぶりにしてました。

 

震災以降 何となく気まずいままだった友人とは 「気仙沼では 私たちがお年頃のとき ”嫁にするなら唐桑女 婿にするなら大島男”」と語り合い りょうちんやお酒好きだけど色気ある新次さん 男気ある龍巳爺ちゃんみたいなマグロ船に乗る船乗りさんが 沢山いたよね~」とか 「私たち鹿折女は 枠外だったね」と笑い話もできました。

 

【祝】気仙沼大島大橋が4月7日に開通! | 【公式】気仙沼の観光情報サイト|気仙沼さ来てけらいん (kesennuma-kanko.jp)

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